はじめに
世界から見(jiàn)る日本の美術(shù)といえば北斎や歌麿など世界に誇る浮世絵や伝統(tǒng)工蕓美術(shù)から、知っ近年の漫畫(huà)やアニメ、ておきたい1する最先端のテクノロジーを駆使したメディアアートなどが往々にして挙げられるだろう。9世術(shù)facebook lucahしかしながら19世紀(jì)以降、紀(jì)降?拠數(shù)多くの日系米國(guó)人や日本人のアーティストたちが米國(guó)でも活躍した歴史がある。の日日本人蕓日系人アーティストの多くは戦爭(zhēng)を挾んで決して平坦な人生ではなかったが、系米自分たちのアイデンティティーと尊厳を取り戻すために作品を作り続けた。國(guó)人國(guó)住これから紹介する作家はほんの一握りにすぎないが、と米現(xiàn)代アートに偉大な功績(jī)を殘し、點(diǎn)と時(shí)空間を超えて自由な心と希望を與え続けているのだ。知っ時(shí)代を追って3回シリーズで掲載する。ておきたい1する【梁瀬 薫】
歴史に殘るレジェンドたち
1.太平洋戦爭(zhēng)の混亂の時(shí)代を生き抜いた蕓術(shù)家
小圃 千浦(おばた ちうら)1885年- 1975年

岡山県出身。7歳で墨絵を?qū)Wび幼少の頃から非凡な才能を表す。紀(jì)降?拠1903年に渡米。の日日本人蕓カリフォルニア大學(xué)バークレー校名譽(yù)教授?日本國(guó)瑞寶章受章。系米
美術(shù)科で教授として22年間勤めた。facebook lucah「教育は食糧同様に重要だ。なかでも蕓術(shù)はもっとも建設(shè)的な教育だ」という信念のもと、41年に収監(jiān)されたタンフォラン収容所ではミネ?オオクボらと美術(shù)學(xué)校を開(kāi)校。54年には米國(guó)市民権を得た。
ヨセミテやサクラメントなどカリフォルニアの大自然を日本畫(huà)の技法で描き、アメリカ絵畫(huà)に新しい風(fēng)を送り込んだ。
ニューヨークのソーホーに紅浦墨絵學(xué)校を開(kāi)設(shè)した山本紅浦(1922年カリフォルニア州アルビゾ出身。現(xiàn)存)の恩師であり命名者でもある。
ミネ?オオクボ 1912年—2001年

カリフォルニア州リバーサイド出身。第二次大戦中に日系人強(qiáng)制収容所で體験した回顧録「市民13660號(hào)」(1946年刊行)で最も知られている。200點(diǎn)近い自らの挿絵とキャプションで構(gòu)成された畫(huà)集である。タイトルの5桁の番號(hào)は名前の代わりに與えられた家族番號(hào)だった。
鉄條網(wǎng)で囲われた収容所。プライバシーも人権も剝奪された、今の私たちには想像を絶する生活。オオクボは人々の表情や細(xì)かな動(dòng)作を流れるようなラインで描いている。とても過(guò)酷な狀況下で描いたとは思えないほど生き生きとし豊かで、どこかユーモアさえある畫(huà)風(fēng)に目が引きつけられる。畫(huà)家として亡くなるまでニューヨークのグリニッジ?ヴィレッジに住み、多くの挿絵や作品を制作した。

?ミネ?オオクボの作品コレクション展が間もまく全米日系人博物館で開(kāi)催される。
2021年8月28日?22年2月20日
Japanese American National Museum
100 North Central Avenue Los Angeles, CA 90012
https://www.janm.org/ja/exhibits/mine-okubo-masterpiece
國(guó)吉康夫(くによしやすお)1889年—1953年

岡山県出身。1906年16歳で労働移民として単身で渡米。西海岸の日系コミュニティーに身を寄せ、ホテルのボーイから果樹(shù)園などさまざまな仕事をしながらロサンゼルスの公立學(xué)校に通う。そこである教師から才能を見(jiàn)出されて畫(huà)家を目指すことに。10年にニューヨークに移り本格的に蕓術(shù)を?qū)Wぶ。29年にニューヨーク近代美術(shù)館(MoMA)の「19人の現(xiàn)代アメリカ作家」展に選ばれる。國(guó)吉は畫(huà)家としてだけではなく美術(shù)家の権利と保障を訴える米國(guó)美術(shù)家會(huì)議のシンポジウムでの講演、米國(guó)蕓術(shù)家組合の初代會(huì)長(zhǎng)を勤めるなど、社會(huì)的な活動(dòng)も精力的に行った。畫(huà)風(fēng)はヨーロッパ絵畫(huà)の影響を受けた具象絵畫(huà)で、官能的な女性像の作品がよく知られている。國(guó)吉の描いた女性像は特定の女性ではない肖像で「ユニバーサル?ウーマン」と呼ばれ一世を風(fēng)靡(ふうび)した。代表作品に「跳び上がろうとする頭のない馬」、「力強(qiáng)い女と子供」(1922年)など。48年にはホイットニー美術(shù)館で現(xiàn)存作家では初の個(gè)展に選ばれ大回顧展が開(kāi)催されている。第2次世界大戦禍では「敵性外國(guó)人」として財(cái)産を沒(méi)収されたことも。アメリカ人と結(jié)婚しながらも20年代にはアジア系住民の帰化は違法で國(guó)籍取得はならず、52年に移民法が改正され、書(shū)類(lèi)の署名を前に53年63歳で人生の幕を閉じた。20世紀(jì)のアメリカ現(xiàn)代美術(shù)に多大な貢獻(xiàn)をした唯一の日本人畫(huà)家と言っても過(guò)言ではない。
イサム?ノグチ 1904年—1988年

ロサンゼルス出身。20世紀(jì)を代表する日系米國(guó)人の蕓術(shù)家といえば自然を生かした石の彫刻作品や庭園で知られるイサム?ノグチだろう。「大地を彫刻すること」を追求したノグチのパリのユネスコ本部庭園や札幌のモエレの沼庭園などは壯大なスケールの蕓術(shù)空間だ。日本人の父と米國(guó)人の母のもとにロサンゼルスで生まれる。2歳から13歳まで日本で暮らし、単身米國(guó)へ渡った。20代の前半でパリへ留學(xué)し巨匠彫刻家ブランクーシのもとで學(xué)ぶ。第2次大戦中は自ら日系人強(qiáng)制収容所に入所する。収容所を?qū)W校や日本文化を?qū)Wべるようなコミュニティーにしたいと考え、動(dòng)物園やデパートなど収容所にあるべきリストを作成。日系1世のために墓地の図面も引いた。しかしほかの被収容者とも孤立し7カ月で収容所を出てニューヨークでさらなる創(chuàng)作活動(dòng)を続ける。戦後の日本で禪庭や伝統(tǒng)蕓術(shù)に影響を受けている。1951年に岐阜提燈との出會(huì)いで生み出された光の彫刻「あかり」は今でも親しまれている和紙と竹による照明器具だ。ノグチは東西の間でアイデンティティーの葛藤に苦しみながらも獨(dú)自の彫刻哲學(xué)を確立したのだ。 ニューヨークのクイーンズ區(qū)にある美術(shù)館は生前にノグチが「美しい場(chǎng)を作るとそこに住む人の心が変わり、地域全體が良くなる」という思いで自身の作品を理想的に鑑賞できる蕓術(shù)空間として設(shè)計(jì)された。イサム?ノグチ蕓術(shù)の本拠地として庭園を含めてドローイングや公共デザインのモデルまであらゆるジャンルの作品が展示されている。
?ノグチ美術(shù)館 The Noguchi Museum
9-01 33rd Road (at Vernon Blvd.) Long Island City, NY 11106 U.S.A
ホームページ—www.noguchi.org
ルース?アサワ 1926年—2013年

カリフォルニア州ノーウォーク出身。
細(xì)い針金のワイヤーによる彫刻作品群が數(shù)年前から注目を集めている。2015年にニューヨークのダウンタウンに新しくなってオープンしたホイットニー美術(shù)館のオープニング展でもアサワの繊細(xì)で意志の強(qiáng)い彫刻作品は記憶に新しい。2017年にニューヨーク近代美術(shù)館(MoMA)で開(kāi)催された女性作家と戦後の抽象蕓術(shù)ではジョアン?ミッチェル、アグネス?マーティン、リー?クラスナーら有名な女性作家たちと肩を並べた。MoMAでの初展示となり、アサワのアートはますます評(píng)価されることとなった。天井からつり下げられる彫刻作品は針金を編み込み、まるでぼんぼりのような柔らかな曲線の有機(jī)的形狀が特徴的だ。何重にも編み込まれ細(xì)胞や生命體を感じさせる。
アートに目覚めたのは収容所だった。1942年には父親がFBIに逮捕されアサワと母親と5人の兄弟はアーカンソーの日系人強(qiáng)制収容所に送られた。ここで日系人アーティストと知り合い絵を描くようになる。その後クエーカー教の奨學(xué)金でミルウォーキーの大學(xué)に美術(shù)教師になるために通ったが、日本への敵性下で教員職はなく大學(xué)を中退。そして知人の勧めでブラックマウンテン大學(xué)に進(jìn)み本格的にアートを?qū)Wぶ。ジョン?ケージやマース?カニングハム、ドイツのバウハウスに學(xué)んだヨゼフ?アルバースなどのそうそうたる教授陣で、蕓術(shù)を通して教育制度を見(jiàn)直すという進(jìn)歩的な大學(xué)だった。大學(xué)で知り合った建築家のアルバート?ライナーと結(jié)婚し、拠點(diǎn)はサンフランシスコとなる。社會(huì)的な活動(dòng)にも力を注いだ。サンフランシスコに公立の蕓術(shù)高校を設(shè)立することに精力を盡くした。高校はジャズセンターやオペラやバレエのシアターなど文化蕓術(shù)の中心地であるシビック?センターに設(shè)立され、2010年には「ルース?アサワ?サンフランシスコ?スクール?オブ?アート」と改名された。
そして作品が起用された昨年の米國(guó)郵便記念切手はさらに広い層にアサワの魅力を伝えることになった。
ジョージ?ナカシマ(中島勝壽) 1905年—1990年

ワシントン州スポケーン市出身。ジョージ?ナカシマといえばコノイドチェアと呼ばれる無(wú)垢(むく)の木の椅子。1959年に発表された。円錐曲線の優(yōu)美なデザインが特徴的だ。ニューヨークのメトロポリタン美術(shù)館のジャパンギャラリーの一室の家具でもよく知られている。 20世紀(jì)アメリカ工蕓運(yùn)動(dòng)の父と呼ばれる木匠だ。ワシントン大學(xué)で森林學(xué)と建築を?qū)Wんだ後ハーバード大學(xué)大學(xué)院に奨學(xué)金で入學(xué)するがマサチューセッツ工科大學(xué)に転校し建築學(xué)修士號(hào)を取得。1933年アメリカが大恐慌の時(shí)代に世界一周の旅に出る。ロンドン、パリに滯在。インド、中國(guó)経由で日本へも。建築事務(wù)所に席を置く。40年にワシントン州に戻る。42年アイダホ州の日系人強(qiáng)制収容所に家族とともに抑留。そこで日系2世の大工と知り合い木工技術(shù)を知り、その後は本格的に家具作りを始める。52年には早くも米國(guó)建築學(xué)會(huì)から金賞受賞するなど高い評(píng)価を受ける。作品はスミソニアン博物館、シカゴ美術(shù)館にも収蔵される。57年にはペンシルベニア州ニューホープに工房が完成。現(xiàn)在は娘のミラ率いる財(cái)団として「ジョージ?ナカシマ?ウッドワーカーズ」として制作を続けている。83年には日本の勲三等瑞寶章を授與される。
ホームページ—https://nakashimawoodworkers.com/
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梁瀬 薫(やなせかおる) ニューヨーク在住。美術(shù)評(píng)論家。アート?ジャーナリスト
1986年MOMAの仕事でNYへ渡る。以來(lái)、(株)美術(shù)出版社ニューヨーク支部を立ち上げ海外情報(bào)事業(yè)を擔(dān)當(dāng)。AICA(國(guó)際美術(shù)評(píng)論家連盟)米國(guó)支部會(huì)員、美術(shù)ジャーナリストとして多くのメディアに寄稿、アートコンサルタント、展覧會(huì)企畫(huà)とプロデュース、展覧會(huì)カタログ執(zhí)筆?翻訳など、コンテンポラリーアートを軸に幅広く活動(dòng)している。
共著に「マイ?アートーコレクターの現(xiàn)代美術(shù)史」(1998年)スカイドア社。
2008年より山梨県小淵沢にある世界で唯一キース?ヘリングの作品を展示する、中村キース?ヘリング美術(shù)館の顧問(wèn)とキュレーターを務(wù)めアジア、ヨーロッパでの展覧會(huì)を企畫(huà)。